「ワタリガラスの伝説を求めて」というサブタイトルが付いている。
先日の「魔法のことば」に続けて読んだのが、この本。感想は、一言、強烈だった。「魔法のことば」に続けて読んだからこそ感じる「何か」が絶対にあるような気がしてならない。正確な日付を追ったわけではないが、「魔法のことば」に収録されている星野さんが各地でされた講演の時期と、この「森と氷河と鯨」が雑誌「家庭画報」に連載されていた時期が重なるように思う。だから、「魔法のことば」は、まさにこの本(「家庭画報」での未完の連載をまとめたもの)の星野さん本人による予告編的な感じがする。だから、以前購入して『積ん読』してあったこの本を、「魔法のことば」を読みながら強烈に読みたくなった。
講演の中でも触れられているが、星野さんはアラスカの土地、アラスカの自然そのものに興味があったというよりも、何と言っても、そこに暮らす人々に興味があった。そこに暮らす人々のつながりの中で、土地、自然、動物、植物・・・に興味があった。アラスカ行きのきっかけになった雑誌「National Geographic」に掲載されたシシュマレフ村の空撮写真(後にその写真を撮った人と会っている)に興味をもったのも、なぜこんなところに人が生活しているのか、という思いだったと、著作に書かれている。
そしてこの「森と氷河と鯨」では、アラスカに暮らすネイティブの人たちの中に強く残る、ワタリガラスの伝説、神話について、いろんな人やもの、土地を通して、星野さんなりの認識を深めていく。その過程を追った本と言ってもいい。そして、ベーリング海峡を挟んで、シベリア側にも残るワタリガラスというの存在。その関係に興味をかき立てられ、シベリアへの取材も行っている。この本の最後には、シベリアでの写真も多数掲載されているが、これは、星野さんが構成したものではなく、残った取材メモと写真を突き合わせて調べて構成されたもの(「おそらく」というキャプションもある)。
この本全体に流れる、「熟していない」という感覚はなんだろう。そして、同じ感覚を別なことばで言うと、「もう少し時間があれば、もっともっと明確なところへ、星野さんは近づけたに違いない」という感覚。きっと、アラスカで過ごしたと同じ以上の時間をかけて、シベリア側での時間を持つはずだったように思える。
モンゴロイドは、現在から遡る一番近い氷河期に、海水が無くなったベーリング海峡(ベーリンジア)を渡り、シベリアからアラスカへ進出したとされる。そんな遙かなる時間を遡り、星野さんは現代に、その逆、アラスカからシベリアへ渡っていった。そして、もっともっと、シベリアでの時間を過ごしたかったんだと思う。
この本を読むと、そのことが、感覚として文字と文字の間から伝わってくる。星野さんの中で、文章という形を取る以前の感覚が、そこここに染みこんでいるように思える。だから、「熟していない」という感覚を持つのかもしれない。だから、もっと生きて、シベリアでの時間を過ごし、違った形(熟した形)の文章を残して欲しかった。そんな気がする。
しかし、星野さんが別の著作で書いている。人間が本当に知りたいものを知ったとき、どうなるか。知るために生きることが、生きる力につながっていくのではないか。そうだとしたら、星野さんは、この本をして、「熟していない」、つまり本当に知りたいものを知る途上にあるところで、答えのヒントだけ遺されたのかもしれない。
星野さんの文章の力強さの頂点に立つ本。ベーリンジアを渡る私たちの祖先の足跡が、想像を遙かに超えた形で、目の前に現れてくるような力強さ。
ゆっくり時間をかけて、星野さんのことばを、丹念に読みこみたい。そんな一冊。
Posted by nakadaira at 2007年02月15日 16:15